アハルカラキ近郊のヴァルジア

ヴァルジアのツアー、見どころおよびアクティビティ
営業時間:10:00-17:00
定休日:なし
ヴァルジアは、トルコとの国境に近いアハルカラキから約18kmの場所に位置しています。この都市は、12世紀から13世紀にかけて、ジョージア王ギオルギ3世とその娘タマル女王の治世下で、南部国境を守る要塞として建設されました。ヴァルジアは、ただ岩に彫られた不規則な部屋が点在する遺跡ではありません。修道院、教会、要塞、浴場、図書館、住居などが階層的に配置され、通路やトンネル、階段によって相互に接続された複合的な岩窟都市です。
全体で600以上の部屋が、山肌に沿って長さ約800メートル、深さ最大50メートルにわたって広がっており、最大で8層におよぶ構造となっています。有事の際には修道院が防衛拠点として機能し、最大で2万人の避難民を収容することが可能でした。
ジョージア軍は、3つの秘密の通路を活用することで奇襲攻撃を行い、敵を撃退することに成功しました。これらの洞窟群は防衛機能だけでなく、聖母被昇天大聖堂を中心としたキリスト教の修道院として、精神的な役割も果たしていました。大聖堂には12世紀に描かれた見事なフレスコ画の一部が残されており、その中にはジョージア王ギオルギ3世と王女タマルを描いたものも含まれています。一部の歴史家は、タマルがこの地に埋葬されたと考えています。破壊を避けるために、トビリシから8つの葬列が異なる方向へ同時に出発し、最終的にゲラティとヴァルジアの両方に到達したと伝えられています。
13世紀、ヴァルジアは1283年の大地震に見舞われ、クラ川沿いで15メートルにも及ぶ岩盤が崩落しました。この被害により、修道院は要塞としての機能を失いました。その後、ヴァルジアは13世紀後半のモンゴルによる侵攻、さらに14世紀から17世紀にかけてのイラン勢力の攻撃やオスマン帝国の支配を受け、これらの出来事が都市の衰退と荒廃を招きました。1828年、ジャヴァヘティ地方はロシア帝国によって占領され、その後ヴァルジアにも再び活気が戻り始めました。ソビエト時代には修道生活が一時中断されましたが、1980年代後半に入り再び修道士の生活が再開されました。現在では約15人の修道士がヴァルジアで生活しています。1938年以降、この地は記念保護区として指定されています。