シルクロードのタジキスタン

タジキスタンの領土は、シルクロード初期から、東と西を結ぶ重要な歴史的ルートの上にありました。バクトリア、トハリスタン、ソグド、イスタラフシャン、フェルガナとインド、アフガニスタン、中国とを結ぶ国際貿易と文化交流において、非常に重要な役割を果たしていました。

シルクロードは、東洋と西洋の間の物資の交換だけでなく、思想、文化、人々の交流にも役立ちました。シルクロード全体で有名だったのは、ソグドの職人が作った武器でした。革製品や宝飾品、絹織物、色付きの塩なども人気がありました。ソグドは「黄金の桃」、白と黄色のサクランボ、羊、優秀な馬などを輸出していました。

古代の情報によると、タジキスタンを横断したシルクロードには次のような区間がありました。

ソグドルートはサマルカンドからペンジケントを通ってコーカンドへ、さらにヴァルス、ウラ・チューベ(イスタラフシャン)、ホジャンド、カニバダム、イスファラを通ってフェルガナ盆地へと続く道を通っていました。

カラテギンと呼ばれるもう一つのルートは、ヒサールとドゥシャンベを経由してテルメズと新彊のカシュガルを結んでいました。

ハトロンルートはカラテギンから南に分岐し、ドゥシャンベからアフガニスタンのバルフまで南シルクロード線に沿って進みました。

パミールルートは、バルフ(アフガニスタン)からホログへと続き、さらに他のルートに分かれていました。

高山の複雑な地形にもかかわらず、現代のタジキスタンの土地は、古代から中世にかけて、人々と文明の架け橋としての役割を果たしていました。草原のルートとは異なり、山の尾根に囲まれた谷間を通るルートは襲撃者に神経を使うキャラバンにとって、より安全でした。

シルクロード沿いのタジキスタンの都市は、絵画のように美しい風景に囲まれた真珠のように輝くものがあります。その中には、ペンジケント、ウラ・チューベ(イスタラフシャン)、ホジャンドがあります。20世紀以上前、これらの都市は、工芸品、文化とよく発達した貿易拠点として有名でした。このルートは、多くのキャラバンが使い、キャラバンサライに立ち寄り、東洋からの商品を交換しました。そのため、タジキスタンの文化や工芸品からは、様々な伝説、儀式、宗教の要素を見つけることができます。

ホジャンド、タジキスタン
イスタラフシャン(ウラ・チューベ)、タジキスタン
ペンジケント、タジキスタン

ペンジケントの古代集落

ペンジケントは、5500年以上の歴史を持つタジキスタン最古の都市で、サマルカンド近郊のザラフシャン川の谷間に位置しています。この土地の美しさと肥沃さは、小さな集落を生み出し、5〜8世紀には都市として繁栄しています。美しく要塞化されたこの文明都市は、ソグドの最も重要な文化と工芸品の中心地の一つで、中央アジアのポンペイとまで呼ばれました。統治者の宮殿の周りには、寺院、市場、多数の装飾品、木や神々を象った粘土の彫刻で飾られた民家が立ち並び、この街を彩りました。ペンジケントは、サマルカンドからコヒスタンの山々に向かう途中の最後の都市でした。同時に、山からサマルカンドに降りて戻ってくるキャラバンはペンジケントを必ず通ったとされます。ソグドはシルクロードの一部を支配していましたが、8世紀にアラビアの征服後の帝国の崩壊後、人々は都市を捨て山に逃げなければいけませんでした。

この古代の遺跡は、前世紀に偶然発見されました。集合住宅や役所の跡、宮殿のある城塞、手工業者の家、ゾロアスター教寺院などが残っています。

ペンジケントの古代集落は、現代でも同じ名前を冠する町の郊外南東に位置しています。

ウラ・テューべ(現イスタラフシャン)

タジキスタンの宝石、ウラ・テューべは、かつてはキャラバンルートの交差点にある貿易の中心地であり、同時に織物や手工芸の街でもありました。

タジキスタン北部、トルキスタン山脈の麓に位置し、紀元前6世紀にアケメネス王キュロスによって築かれ、キュロポリスまたはクルシュカダと名づけられたのはその頃です。紀元前4世紀にアレクサンダー大王が中央アジアを征服した時には、クルシュカダはすでに大きく、要塞化された都市でした。しかし、ギリシャの兵士たちは、干上がった水路に沿って歩き、門を開けることができました。都市はアレクサンダー大王の命令で破壊されました。

歴史上、この美しい古代都市は異なる名前を付けられました。例えば、中世には、ウストルシャンの首都ブンジカトとして知られていた。 アラビアの主権の時代には、イスタラフシャンはイスラム帝国の一部になりました。この頃からモスク、マドラサ、霊廟、ミナレットなどのイスラム建築が現れ始め、9~10世紀にサマニド朝の支配下で急速に発展しました。しかし、13世紀にはチンギスハンによって都市は再び破壊されてしまいました。

その後、14世紀から15世紀にかけてティムール朝の勢力下でその輝きを取り戻し、都市はウラ・テューベと呼ばれていました。

16世紀にブハラに首都を置く新しいシャイバナ朝が出現した結果、トランスオクシアナ(ウラ・テューべも含めて)の重要性を失いました。

18世紀には、独立し、封建国家の中心地としてウラ・テューべは再び発展しました。この時期には、城塞や要塞が強化され、新旧の建造物が復元され、多くの遊牧民の攻撃を食い止めることができる新しい要塞が建設されました。1886年、ウラ・テューベはロシアの一部となりました。

街には、モスク、霊廟、マドラサなどの多くの遺跡があります。ウラ・テューベの周辺には、シャフリスタンの古代都市のような豊富な考古学的発見があります。

ホジャンド

シル・ダリヤの美しい渓谷に位置するこの都市は、2500年以上の歴史を持っており、アリストテレスの著作の中で初めて言及されました。2,500年の歴史の中で、この都市は何度も悲惨な征服の度に何度も復興してきました。

古くから東西の有名な交易路の交差点に位置していたことから、ホジャンドは中央アジアの主要な経済・文化の中心地の一つであり、シルクロードの中心地でもありました。ホジャンドの職人たちが作った絹製品や宝飾品は、東洋以外でも知られていました。今でも市街地の名前は、これらの工芸品にあやかって呼ばれています。ザルガロン(宝石職人)、ピラカション (糸巻き師)、サンブロン(石工)などです。

ホジャンドの歴史はアレクサンダー大王の軍隊がシルダリヤ川のほとりに到着する前、2500年以上前に始まりました。

ホジャンドは、古いものと新しいものが混ざり合い、建築様式、習慣や服装に影響を与えている都市です。シタデル 、シーク・ムスレフディン霊廟、15世紀から18世紀に建てられた数々のモスクとミナレット、バザールや他の歴史的建造物は、多くの観光客を魅了しています。